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佐々木小次郎と宮本武蔵の決闘の地・巌流島は諸説であふれていた!

北部九州・山口のコミュニティFM各局とRKBラジオによるコラボ番組『ローカる!』。地域密着のコミュニティFM局のパーソナリティにとっておきの街ネタを紹介してもらう。6月5日(日)の放送では、山口県下関市にあるCOME!ON!FMのパーソナリティで、下関市観光スポーツ文化部観光政策課主任という二足のわらじを履く、たなか~る先生こと田中洋一さんに歴史に残る決闘の地を案内してもらった。(報告・RKBラジオディレクター荒木風花)  

意外!あの“夏の風物詩”も楽しめる巌流島


たなか~る先生:きょうは宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の地・巌流島へ向かいます!唐戸の港から出ている巌流島行きの船に乗り込み出発です!

 

~船で移動~

 

RKBラジオ・荒木風花ディレクター:巌流島に着きました!「ようこそ巌流島へ」ということで、案内板を確認しますと…あの、武蔵・小次郎の像もあるんですね。ここで決闘が行われたんですね。
 
私たちの眼下に広がっているのはでっかい、でかすぎる「関門海峡」でした。巌流島からは北九州市の門司と山口県の下関市が同時に見えます。取材日も大きな船が何隻も行き来していました。やってきたのは巌流島の内陸部にある広い野原。ここでは意外にも“あの夏の風物詩”が体験できるそうです

たなか~る先生:巌流島ではバーベキューもできるんです。食材なども全部持ち込みで、申請すれば誰でもできます。なかなか無人島である巌流島でバーベキューなんてできないですよ。
しかし、たなか~る先生はまだ一度もここでバーベキューをしたことがないらしい。バーベキュー場からの景色はもちろん広い海、関門橋。ローケーションも最高だ。ここで焼くお肉は最高に美味しいでしょう。

諸説だらけの“巌流島の決闘”

そして見えてきたのは巌流島での決闘が再現された佐々木小次郎と宮本武蔵の像。イチ押しポイントがいくつかあるというたなか~る先生についていくと…

荒木:像の前に「手形」がある!

 

たなか~る先生:2018年、将棋の竜王戦の第7局がここ下関市で行われたんです。当時竜王だった羽生善治さんと、挑戦者の広瀬章人さんの手形がここにあるんです。
そして島のシンボルの像は…

荒木:左が宮本武蔵で右が佐々木小次郎…?

 

たなか~る先生:逆ですね(笑)左側、若く描かれているのが佐々木小次郎で、右側の木刀を持っているのが宮本武蔵です。宮本武蔵の方が少しおじさんっぽく描かれていますが、諸説あって、武蔵は18歳というものも…昔は宮本武蔵が若くて佐々木小次郎の方が年上だったといわれていました。語り継がれる中で入れ替わったのかもしれません。
 

たなか~る先生:決闘の経緯についてもたくさんの説があります。一般的には宮本武蔵が巌流島に遅れてやってきて、佐々木小次郎は先にいた。これも宮本武蔵が船で小倉から来たのか下関から来たのか、両方とも説があるため分かっていません。
さらに私たちがきょう船に乗り込んだ唐戸の桟橋にある宿から来たという説もあり…。もしその説なら、私たちは同じルートをたどってきたことになりますね。

 

決闘の理由も、宮本武蔵のお父さんを卑怯な形で佐々木小次郎が殺してしまったという説や、二人の流派の違いなども絡み合ったようです。

 

さらに、当時を感じる「あるもの」が。

荒木:海は砂浜…あ!壊れた船がある!これはもしや宮本武蔵が乗ってきた船!?

 

たなか~る先生:気になりますね、あのボロボロ具合が…(笑)

 

荒木:近くに「伝馬船」と書かれた看板があります。説明を読むと…“この伝馬船は下関市の山陰方面で使用されたものですが、武蔵が伝馬船に乗って巌流島に渡り、小次郎と戦ったその当時を偲んでいただくことをイメージして設置していますので、船に乗ったり触ったりしないでください。巌流島奉行・下関市長”。…ということは作られたもの!?

 

たなか~る先生:そうですね(笑)決闘が行われたのも砂浜と言われているので、まさにここで戦った…かもしれません。
 

下関の住民は決闘に敗れた佐々木小次郎の方が好き


たなか~る先生:ここから対岸に見える彦島という場所に「弟子待(でしまつ)」という地名があります。これも巌流島の決闘と関係があって、戦うときに弟子を連れて行くという卑怯なことはできないので、佐々木小次郎が弟子を待たせていたといわれているんです。それも諸説あるうちの一つなのですが、それにちなんだ場所や地名がついた所も下関にはあるんです。この巌流島ももともとは「船島」と呼ばれていたということも分かっています。下関では佐々木小次郎のことを結構好きな人が多く、負けた方なのに、小次郎にちなんだ地名で想いを寄せているのだと思います。
 

たなか~る先生:決闘があったのは1612年4月13日です。関ヶ原の戦いが終わってすぐなんです。ちょうど今から410年程前ですね。幕末には吉田松陰や坂本龍馬が訪れたり、明治時代には佐々木巌流の碑が建立されたりと話題が絶えません。いまは無人島になっていますが、1955(昭和30)年頃にはおよそ30軒の家があったと言われています。1973(昭和48)年には最後の住民が島を去り、無人島になりました。さらにプロレスファンには胸熱な戦い、巌流島でアントニオ猪木とマサ斎藤の夜のデスマッチが行われました。まさしく決闘の聖地ですね。
 

どうやって渡った?島に住む2匹の…

決闘に想いを馳せ、島を後にしようとしたとき。たなか~る先生がある驚くべき事実を語りだしました。

たなか~る先生:この巌流島、無人島って言ったんですけど、実は密かに“住民”がいまして…。たぬきが2頭ほど。

 

荒木:え!たぬきですか!?

 

たなか~る先生:桟橋のあたりにたまにいるそうで、見かけるとラッキーな存在なんです。たぬきは「他」を抜く動物と言われているので、あえると幸運になれると言われています。
結局取材日はたぬきの姿は見られずじまい。何度も島に上陸しているたなか~る先生も、一度しか遭遇したことはないのだそう。ちなみに、どうやってたぬきが巌流島に渡ってきたのかも…諸説あるそうです。

 

さまざまな想いを抱えたまま「シーガル号」に乗って唐戸へ。歴史は語り継ぐ中で間違ったり脚色されたり…諸説が増えることもある。しかし、分からないことを想像して補うことは楽しい、面白いと感じた一日でした。

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