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松尾潔が解説「歌謡ロック」で女性像を変えたアン・ルイス

「歌謡ロック」というジャンルを築き、歌謡曲とロックの境目をなくしたアン・ルイス。“自律した女性”の代弁者として時代を切り開いたスターの功績を、彼女の誕生日にあたる6月5日、RKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』に出演した音楽プロデューサーの松尾潔さんが振り返った。

波瀾万丈な人生

6月5日に67歳の誕生日を迎えたアン・ルイスさんですが、彼女のイメージって、多くの人にとっては、ある時点で止まっているんじゃないかと思います。それも仕方ないことでしょう。90年代半ばにパニック障害を患い、その後活動を休止していましたし、21世紀に入って、テレビに出演したのは数えるほどですから。

彼女、結構波乱万丈な人生を過ごしています。「セクシャルバイオレットNo.1」で知られ、アン・ルイスさんと同じく、歌謡ロックというジャンルを築いた桑名正博さんと夫婦だった時期もあります。桑名さんは激しい人で、わいせつ行為や薬物で逮捕されたこともありました。そのたびに「アンさん、どうしてるのかな?」なんて思っていました。

アメリカっぽさと愛嬌を持ったスター

1971年に「白い週末」で歌手デビューしたアン・ルイスさん。80年代は人気シンガーとして駆け抜けたって感じですよね。デビュー当時まだ14歳で、世の中に出たのが早いんですよ。「グッド・バイ・マイ・ラブ」だって、1974年の曲ですよ。70年代はまだ、アメリカに対しての見上げるような眼差しが日本に根強く残っていた頃です。

流暢な英語や華やかな容姿。アン・ルイスさんはその芸名が示す通り、アメリカ文化と日本文化、それぞれの良いところを合わせ持っていました。こういう海外っぽさ、アメリカっぽさの中で出てきたスターという感じがします。普遍的な歌のうまさと、声の良さ、そしてキャラクター。愛嬌があって、人を惹きつけるような魅力がありました。

山口百恵と沢田研二が曲提供

歌謡曲フォーマットで世に出てきたものの、洋楽フィーリングをどう取り入れるかという命題とずっと向き合ってきたアン・ルイスさん。その一つの答えだったのが、1982年の「ラ・セゾン」です。彼女のたっての願いで、作詞をしたのは引退して間もない頃の山口百恵さんでした。そして作曲は沢田研二さん。昭和を代表するスター2人が提供した歌謡ロックでした。

「ラ・セゾン」でロック路線に

1982年にこの曲がヒットしたときのことを、僕はよく覚えています。歌謡曲としてもかっこいいけど、ロックとしてもかっこいいって思いました。アン・ルイスさんって、甘えるような、すごくスイートな歌い方をする印象だったんですが、「ラ・セゾン」は毅然とした感じでした。

彼女自身ものちに語っていましたが、この曲から振り切ってロック路線に行ったんですよね。この後の「LUV-YA」、そして決定的だったのは、2年後の1984年に出た「六本木心中」です。

リリースから40年近く経とうとしていますが、今でもカラオケでよく歌われています。この路線で「ピンクダイヤモンド」や「あゝ無情」、あとちょっとテンポを落とした感じの「WOMAN」も、カラオケクラシックというか、定番曲がたくさんありますね。

歌謡曲とロックの境目をなくす

歌謡曲がどういう形で生き延びているかということには諸説あると思いますが、アン・ルイスさんの頃は、あくまでも歌謡曲が先にあって、そこにロックを入れたという感じでした。改めて考えてみると、アン・ルイスさんのような人が歌謡曲とロックの境目をなくしたんですね。

つまり「ロック歌手が、テレビの歌番組に出てにこやかに話していても違和感がない」という状態を作り上げた。これはアン・ルイスさんの属人的な功績というか、彼女のキャラクターがなければできなかったことだと思います。

のちの椎名林檎につながる

大作詞家・湯川れい子さんは、アメリカで既にそうなりつつあった、音楽業界にも押し寄せるフェミニズムをいち早く取り入れ、それが「六本木心中」の作詞に反映されました。男性に依存しない女性、自立した女性像を体現するにあたって、アン・ルイスさんは1980年代当時、屈指の代弁者だったと言っていいでしょう。

アン・ルイスさんはテレビに出たときに自分のことをよく「アンさんは…」と言っていました。後に小泉今日子さんが、「小泉は」って言っていましたが、「私は」ではない一人称って、男性が求めるものを演じるのではなく、一つの「個」として、自分で言葉を発信する役割を表わしたとも考えられます。

こういった人たちを経て、たとえば椎名林檎さんたちに至っていると言っても過言ではないでしょう。

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