田畑竜介Grooooow Up

月~木曜 6:30
日中国交正常化50周年~九州の先人から日中相互理解のヒントを探る

日中国交正常化50周年~九州の先人から日中相互理解のヒントを探る

9月29日は日中国交正常化から50周年の節目にあたる。東アジア情勢に詳しい、飯田和郎・元RKB解説委員長は、同日出演したRKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』で「九州の先人たちが、中国の革命家とどのように心を通わせ、互いを信頼してきたか」を紹介しながら、日中関係の今後についてコメントした。

 

孫文を物心両面で支えた荒尾出身・宮崎滔天

先日、熊本県の荒尾市へ出かけてきた。JR荒尾駅から徒歩15分ほどのところに宮崎兄弟資料館がある。孫文を物心両面で支えた宮崎滔天の生家を、荒尾市が管理している。

 

孫文といえば2000年以上続いた中国最後の帝政、清朝を破り、アジアで初めての共和国・中華民国誕生に至った辛亥革命の指導者だ。

 

1911年に始まったこの辛亥革命が成功に至るまで、孫文を支援したのが当時、荒尾村の大地主だった宮崎家の4兄弟だ。中でも、末っ子の寅蔵(=のちの滔天)は、革命への熱い思いを語る孫文に心酔し、長く孫文の活動を支え続けていくことを誓った。1897年(明治30年)のことだった。

 

当時、孫文が目指した革命は失敗続きだった。孫文はアメリカに渡り、同志を募るが、これもうまくいかない。そういう中で、日本に逃れてきた。

 

一方、清朝は、孫文の日本での活動を警戒し、日本政府に孫文の動向を調べるよう求めていた。孫文は、いわば「お尋ね者」だった。滔天は初対面から約2か月後、孫文を熊本・荒尾村の実家へ招いた。厳しい監視の目から、孫文を解放する目的もあったようだ。孫文は2週間、有明海に面した寒村で過ごした。

 

荒尾の資料館に行くと、ほほえましいエピソードに出会える。日本語のわからない孫文に、中国語を喋れない滔天――。二人の意思疎通は主に筆談だった。漢字を共有する中国人と日本人だから、可能なコミュニケーション術だ。

 

家族も孫文を心からもてなした。滔天の妻・ツチは、椅子の生活に親しんでいた孫文のために、板の間に布団や毛布を積み、孫文を座らせた。

 

当時の荒尾の人たちは中国料理を知らない。しかも懐がさみしい。それなのに、ありったけのもてなしとして、鶏料理、近くの海で獲れた魚の刺身、ウナギ料理などなどを孫文に出したそうだ。孫文は何を口にしても、ニコニコしながら「オーライ」「オーライ」と言ってみせていた。資料館の案内によると、ある日、刺身を食べた孫文が下痢をしたそうだ。やはり合わなかったのだろう。これには後日談がある。

 

やがて、孫文は武装蜂起を繰り返した末、夢を成就させた。辛亥革命は1912年、成し遂げられた。そして、翌1913(大正2)年、孫文は来日した。その際、孫文は荒尾村の滔天の生家を16年ぶりに再訪している。かつて、もてなしを受けた田舎料理の話題になり、孫文はこう言ったそうだ。「ここで食べた刺身は、とてもおいしかった」と。

 

本当は口に合わなかった。だが、支えてくれた宮崎家の人たち、荒尾村の人たちに、これ以上、感謝の気持ちを示す言葉はないように思う。

孫文が安川電機創業家で揮ごうした「世界平和」

北九州市戸畑区にある旧安川邸は、北九州市と安川電機が共同で再整備を進め、昨年春に完成した。一般公開されている。

 

旧安川邸は、明治炭鉱や安川電機などを創設した安川敬一郎が暮らした。安川敬一郎は孫文への多額の資金を提供したことで知られる。孫文は荒尾村の宮崎家への再訪と同じ1913年、講演で北九州を訪れている。その際に、この安川邸に1泊した。滞在中、孫文が揮ごうした書「世界平和」は、今も大切に保存されている。

 

2009年12月、当時国家副主席だった習近平氏は訪日の際、同市八幡西区の安川電機を訪れ、ロボット工場を視察している。中国や台湾で「国父」と呼ばれる孫文。習近平氏の安川電機訪問は明らかに、日本との歴史的つながりを考えた日程だった。

地理的条件だけでなく「理念や共感」で交流深めた中国と九州

宮崎滔天、安川敬一郎だけではない。ある意味、近代・中国の原型づくりを支えた九州人、それに九州の人がつくった組織は数多い。

物的支援はもちろん大切だが、そこに理念や共感がないと深い交流はできない。孫文が、荒尾の刺身を「おいしかった」と言った話に代表されるように、荒尾の人たちは長い期間、孫文をもてなした。

日中関係はいま、友好から対立、対抗の時代へ移った。きれいごとを言える時代ではない。だが、日中関係はもっぱら「東京と北京」または「日中間の政治」で語られてはいないだろうか。

私たち「普通の人」でもできること、九州に住む者だから、できることがある。「日中友好」と謳い上げなくても「日本と中国のお付き合い」としてなら、できることは無数にあるはずだ。

残念ながら、日中間の政治が冷え込むと、自治体交流、民間交流も途絶えるケースをまま聞く。そんな考えに傾くのは理解できるが、「こんな時だからこそ」私は東京や北京ができないことを、庶民が引っ張っていきたいと思う。

「自らが体験せず、東京や北京からの伝聞だけ」「インターネットの情報だけ」で判断する「食わず嫌い」はないだろうか?

社会のルール通り振る舞うだけで日本のイメージは良くなる

コロナ禍が収まれば、九州にも中国人観光客が戻ってくる。中国人に限らず、外国からの旅行客に、道案内をしたり、言葉を交わしたりすることをしなくても、我々ができることはある。笑顔で応じるだけでもいい。

 

「信号を守る」「道路を横切って渡らない」「ゴミやペットボトルをきちんと捨てる」。当たり前のことをするだけでいい。残念ながら、中国の人たちにはできていない社会ルールもある。私たちが社会のルールに対し、普通に振る舞うことだって、日本のイメージを良い方へ変えることにつながる。その積み重ねは実は小さくないはずだ。

 

互いの国の指導者が違う方向を向いていても、外交を動かすのは、民意も大きな要素だ。上海で雨が降れば、半日あとに、この北部九州でも雨が降る。日本と中国は引っ越しできない隣人なのだから。

飯田和郎(いいだ・かずお) 1960年生まれ。毎日新聞社で記者生活をスタートし佐賀、福岡両県での勤務を経て外信部へ。北京に計2回7年間、台北に3年間、特派員として駐在した。RKB毎日放送移籍後は報道局長、解説委員長などを歴任した。

 

金曜ドラマ『クロサギ』

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2022.11.24
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