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日中国交正常化50周年の裏=日本と台湾「断交50年」を考える

暮らし
2022年は日中国交正常化50周年。その裏を返すと、日本と台湾(中華民国)の断交50年だ。もうひとつ、かつて日本が台湾を統治した期間が50年間だった。日台の現代史における二つの「50年」が揃う形になった。東アジア情勢に詳しい、飯田和郎・元RKB解説委員長が、RKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』で、奇妙にも思える日台関係について考える。  

「台湾人は二度、日本に捨てられた」

台湾は、停止していた観光目的の外国人旅行者の受け入れを、9月末に再開した。日本人はコロナ禍前と同じように、ビザなしで台湾旅行が可能となる。当面は入境後3日間の隔離を求めるが、近くこの措置は撤廃されそうだ。台湾入境時のPCR検査も、短時間で結果が出る簡易検査に切り替えるようだ。

 

台湾の市民を対象にしたアンケート調査で「どの国が好きか?」を尋ねると、どれも「最も好きな国は日本」との回答がトップになる。「親日・台湾」。だが台湾の人たちの中には、このような言い方をする人がいる。「台湾人は二度、日本に捨てられた」と。

 

1回目は、日本が太平洋戦争に負けて、50年間統治した台湾を放棄したこと。日本に代わって台湾の支配者になった国民党政権は、市民に対し横暴にふるまう。市民はそんな経験から、日本統治時代を懐かしんだ。

 

同じ外来政権でも、「こんなことなら中国大陸からやってきた国民党政権より、日本の統治の方がずっとよかった」「お父さん(=日本)は我が子(=台湾)を捨てて、自分の国に帰ってしまった」――ということだ。

 

2回目は50年前、1972年9月29日。すなわち、日本政府が中国との国交正常化と同時に、中華民国(台湾)との間の日華平和条約について「存続意義を失い、終了した」と表明したことだ。これに対し、台湾は日本との外交関係断絶を発表した。

 

毎日新聞社が発行するビジネス情報誌「エコノミスト」の9月13日号に、日中国交正常化当時の大平正芳外相の娘婿、森田一(はじめ)氏の証言が載っている。

「大平は1964年7月、外務大臣として台湾を訪問し、蒋介石総統と会った。私は秘書官として随行した。そのころから大平は中国本土と正常化しようと考えていた」

 

「蒋介石総統と宋美齢夫人、大平と私の4人で会食した時、相手は非常に低姿勢だった。総統は『北京側と交渉しないでほしい』と、婉曲的には言っていたけど、日本はいずれ北京と交渉を始めるだろうなという前提での会話だった」
これとは別に、日台断交の2週間前、中国との国交正常化の方針を説明するため、日本政府の特使が台湾側へ派遣された。特使の乗った車の列は、台北市内で抗議のデモ隊に囲まれ、フロントガラスが割られる出来事もあったという。蒋介石の予見とは別に、市民の間にはやはり「また日本に捨てられた」という思いがあった。

 

中国との国交樹立の翌日、1972年9月30日の毎日新聞。1面には「国府(=台湾の国民党政府) 対日断交」「責任は日本政府に、と声明を発表」という見出しがある。当時の台湾外務省が発表した声明は、日本政府を激しく非難しているが、こんな一文もある。

「我が政府とすべての日本の反共民衆の人々が、友好を永遠に保持していくことを、固く信じている」
「反共民衆」とは「共産主義に反対する市民」という意味だ。国民党政権独特の表現だが、要は「一般の日本国民と友好を維持していこう」ということだ。当時、台湾在住の日本人3800人の安全が懸念されたが、在留邦人への報復といった事態も起きなかった。

 

台湾側も「断交はやむなし、だけど、日本とは非公式に、また民間の関係を大切にしていこう」と考えたということだ。一方の日本側も、水面下で台湾側に、正式な外交関係はなくなるが、民間レベルではこれまでどおり、これまで以上に交流すると約束している。

「台湾と日本の関係は史上最も友好的」

それから半世紀が経過したが、日本と台湾の関係は極めて良好だ。断交50年当日の9月29日、台湾の外務省は記者会見で「台湾と日本は自由、民主、人権、法治など基本的価値観を共有する。互いを心から愛し、密接に交流を続けている」と表現した。また、蔡英文総統はこの夏、「台湾と日本の関係は史上最も友好的」と謳い上げた。

 

その要因は?主に3つあると考える。まず、台湾自身の努力。着実に民主化の歩みを進め、言論や報道の自由を実現、自由選挙は政権交代も可能なものに定着した。今やアジアにおいて台湾は「民主主義の優等生」。日本と「価値観を共有」できるようになった。

 

2番目は日本の先人たちの努力。統治した時代、国策とは別のところで、インフラ整備、保健衛生の向上、産業振興のために、努力した名もない日本人がたくさんいた。その遺産が今も生きている。

 

それら土壌に、さきほど紹介したように、断交時、双方の水面下での約束、つまり「民間で交流を維持しよう」という約束が生きた。そしてこの半世紀で、着実に広がってきた。また、日台双方で「反中」という意識が広がり、その反動によって「親台湾」「親日本」が根付いた側面もある。
 
2011年の東日本大震災のとき、台湾は日本へ国・地域別では最大規模となる200億円を超える義援金を被災地に贈った。これは政府主導ではなく、台湾市民一人一人が持ち寄ったものだ。また、新型コロナウイルス感染が広がると、台湾は日本へマスクを贈り、日本は台湾へワクチンを提供する相互支援につながった。
 
コロナ禍前の2019年、台湾からは約490万人が日本を訪れた。訪日旅行者総数では中韓に次ぐ3位だが、人口比でいうと、約2300万人の台湾住民のほぼ5人に1人だ。台湾観光客がそう遠からず、日本へ戻ってくる。

日本人がやるべきことは少なくない

日本政府の今後の役割は何だろうか?たとえば、台湾は世界保健機関(WHO)総会への出席が、中国などの反対によって認められないまま。日本政府は台湾が望むオブザーバー参加への支持を表明してきたが、健康は何人(なにびと)も享受できるはず。理不尽には、より大きな声で中国に、世界に訴えていいと思う。

 

また、厳しい日本の周辺環境を見渡すと、台湾の存在は貴重だ。「台湾有事」への関心が高まっている。台湾統一を目指す中国がこの地域で軍事行動を活発化する中、安全保障分野でアメリカ、台湾、それに日本も連携する。そういう意味で、国際社会において、台湾への関心、台湾の存在感は高まっているようにも思える。

 

日本は台湾を独立国家として認めていないのに、台湾では、多くの人が半世紀も統治した日本に親しみを抱いてくれる。民主化という台湾自身の努力、また、統治時代の日本の先人たちの努力が今日の日台関係の土壌を培ってきた。

 

一部の台湾人の言葉を借りれば、かつて「日本は台湾を捨てた」が、今を生きる日本人は、現状に満足するだけではなく、やるべきことは少なくないと思う。それは、この地域で仲間を増やすため、という計算だけではなく、台湾が歩んで来た近現代史を見つめることで、我々が今後、進むべき道も見えてくるのではないだろうか。

飯田和郎(いいだ・かずお) 1960年生まれ。毎日新聞社で記者生活をスタートし佐賀、福岡両県での勤務を経て外信部へ。北京に計2回7年間、台北に3年間、特派員として駐在した。RKB毎日放送移籍後は報道局長、解説委員長などを歴任した。
 

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