PageTopButton

長嶋茂雄が福岡を変えた? "ミスター"とプロ野球の"もし"

飯田和郎

radiko podcastで聴く

長嶋茂雄さんの野球人生における「もしも」が、福岡のプロ野球の景色を大きく変えていた―――。6月9日放送のRKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』に元RKB解説委員長で福岡女子大学副理事長の飯田和郎さんが出演し、プロ野球の「もし」についてコメントしました。

アンチ巨人・阪急ファンが語る長嶋茂雄

私(飯田)自身はアンチ巨人、阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)ファン。子どもの頃、パ・リーグでは敵なしだった阪急が、日本シリーズで常に巨人に阻まれてきた経験から、巨人、そして長嶋さんに対して特別な感情を抱いていました。

幻の南海ホークス入団と「ストーブ・リーグ」の真相

私が注目したのは、長嶋茂雄さんが巨人に入団する前の経緯です。1957年12月7日の朝日新聞夕刊に掲載された長嶋さんの入団契約記事には、「ストーブ・リーグではいろいろ心配をかけたが、巨人軍に正式入団できてうれしい」というコメントが残されています。

当時のプロ野球にはドラフト制度がなく、自由競争の時代でした。各球団が有力選手の獲得にしのぎを削る中、長嶋さんは立教大学の先輩である大沢啓二選手(当時南海)の熱心な勧誘もあり、一時は南海ホークスへの入団を決意し、球団にもその意志を伝えていたというのです。さらに、長嶋さんは大学の同僚でエースだった杉浦忠さんを「一緒に南海へ行こう」と誘っていたことも明かされました。

しかし、最終的に長嶋さんは翻意して巨人に入団。一方、長嶋さんに誘われた杉浦さんだけが南海に入団することになったのです。この「長嶋さんの身の振り方」は当時、世間を大いに賑わせました。

もし長嶋・杉浦が南海にいたら?福岡のプロ野球史の“if”

ここからが今回のテーマ「もしも」です。もし、長嶋さんと杉浦さんの2人が予定通り南海ホークスに入団していたら、プロ野球の歴史、特に福岡の野球の景色は大きく変わっていたかもしれません。

杉浦投手は入団4年間で116勝を挙げ、長嶋さんも1年目で新人王、ホームランと打点のタイトルを獲得するなど、投打のスターが南海に揃っていたら、球団経営は大きく好転し、その後の身売りもなかったかもしれないのです。

消えなかったかもしれない西鉄ライオンズ

さらに話は福岡へと及びます。もし長嶋さんが南海の一員として福岡に遠征に来ていたら、当時の西鉄ライオンズとの対戦で平和台球場は連日満員になり、西鉄が球団を身売りすることもなかったかもしれないと推測します。太平洋クラブやクラウンライターといったスポンサー企業もライオンズから撤退しなかった可能性も考えられます。

かつてはパ・リーグとセ・リーグの間で人気に大きな差があり、長嶋さんの現役時代にはパ・リーグの観客動員数がセ・リーグの半分以下という年もありました。長嶋さんが国民的スターでありながら巨人の選手であったことが、リーグ間の人気格差を広げた一因だったと分析します。

福岡ソフトバンクホークスは存在しなかった?

もし長嶋さんが南海に入団していたら、南海ホークスも、福岡のライオンズも消滅しなかったかもしれません。そうなると、現在、福岡の多くのファンが応援する福岡ソフトバンクホークスという球団も存在しなかったかもしれません。

もちろん、長嶋さんが巨人の選手だったからこそ、王貞治選手との「ONコンビ」を形成し、国民的スターとしての「歴史」を築いたという見方もできます。しかし私は、長嶋さんのプレースタイルやキャラクターであれば、どのチームにいても、たとえ一人でも太陽のように輝いていたはずです。

現在のプロ野球は、セ・パ交流戦の導入などもあり、かつてのようなリーグ間の人気格差は縮小しています。2024年の観客動員数の差は9.4%にまで縮まり、プロ野球全体の隆盛を感じています。こんかいの「もしも」の考察を通して、長嶋茂雄という偉大な存在が、日本のプロ野球に与えた影響の大きさを改めて感じました。

この記事はいかがでしたか?
リアクションで支援しよう

この記事を書いたひと

飯田和郎

1960年生まれ。毎日新聞社で記者生活をスタートし佐賀、福岡両県での勤務を経て外信部へ。北京に計2回7年間、台北に3年間、特派員として駐在した。RKB毎日放送移籍後は報道局長、解説委員長などを歴任した。2025年4月から福岡女子大学副理事長を務める。