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反日中国人活動家の死と日中首脳会談の深層をウォッチャーが解説

飯田和郎

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先週開かれた日中首脳会談と時期を同じくして、ある中国人反日活動家が亡くなった。東アジア情勢に詳しい、元RKB解説委員長で福岡女子大学副理事長の飯田和郎さんが、11月3日放送のRKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』に出演し、日中間に横たわる歴史問題と民間賠償請求の根深さについて考察した。

習主席が高市総理に発した「クギ」

先週、高市早苗総理は中国の習近平主席と初の首脳会談に臨みました。高市総理が「タカ派」と目されているだけに、会談での習主席の発言は注目を集めました。

習主席は会談で、高市総理に対し、以下の言葉を伝えています。

「日本の新しい内閣が、中国に対する正しい認識を確立し、また、両国の先輩政治家や各界の人々が、日中関係発展に注いだ心血と努力を大切にすることを希望します」

ここで言う「心血と努力」とは、1972年の日中共同声明による国交正常化の決断や、その後の関係構築への努力を指すのでしょう。さらに習主席は、こう続けました。

「『村山談話』は、日本の侵略の歴史を深く反省し、被害を受けた国に謝罪しました。この精神は高く評価すべきものです」

これは、日本が第二次大戦中の侵略と植民地支配を認め、謝罪した1995年の村山富市元総理の談話に言及し、中国側の立場を明確にしたものです。習主席は、高市総理率いる新内閣にも「村山談話」を忘れないようにとクギを刺した形です。これは、習主席にとって「過去の歴史をきちんと見よ」というメッセージに他なりません。

「民間賠償請求」第一人者の死

この習主席の発言と時を同じくして、日中関係の歴史問題に深く関わってきた一人の中国人が亡くなりました。

「日中戦争を巡る損害賠償訴訟を支援してきた、『中国民間対日賠償請求連合会』の会長、童増(どう・ぞう)さんが10月23日、病気のため、北京で亡くなった。69歳だった。童増さんは、沖縄県・尖閣諸島の中国の領有権を主張する反日団体の会長なども務めた」

童増さんは、かつて私が毎日新聞の記者として北京に駐在していたころの取材相手の一人でした。立場や国籍は異なっても、付き合ってきた方が世を去ったことに、深い感慨を覚えます。

童増さんの主張は、1972年の日中共同声明で国家間の戦争賠償請求は放棄されたが、日本兵に殺された遺族や損害を被った中国市民は、日本に対して民間賠償を請求することができる、というものでした。彼は、従軍慰安婦の生存者、強制連行された元労働者、南京事件の犠牲者、731細菌部隊の被害者など、「ありとあらゆるもの」について、個別に組織をつくり、裁判に訴えようとしてきた、いわば中国における民間賠償請求運動の第一人者でした。

中国政府にとっての「使い勝手のいい」存在

童増氏の活動を、中国政府が一貫して容認していたかというと、実はそうではありません。

1992年に中国の当時の副総理は、「(民間賠償の要求は)政府とは別のことだ。民間の正常なルートを通じて要求を訴えることは正常なことだ」と発言し、容認しているようにも見えました。しかし、「民間」とはいえ、中国で政治的活動が容認されるには、当局の判断が必要です。

実際、中国政府は、童増氏らの行動が対日政策に悪影響が出ることや、国内の安定維持にマイナスになると判断した場合、身柄を拘束したり、希望した日本訪問を阻止したりと、運動を抑制してきました。つまり、その時々の日中間の政治状況によって、童増氏は「使い勝手のいい」存在だった、と言えるでしょう。

北京特派員だった当時、私は童増氏に何度も会って取材しましたたが、「過激な活動家」というイメージはありませんでした。むしろ、政府系のシンクタンクの研究員だった童増氏は、彼なりに理詰めに主張するタイプでした。

習近平体制下では、童増氏のような個人が運動の前面に出ることは今後は考えにくいですが、日中関係が悪化すれば、この民間賠償問題が亡霊のように再び現れる可能性はあります。

歴史的遺物の返還という新たな課題

童増氏が遺した問題は、賠償問題だけではありません。最後に、彼が熱心に取り組んだ歴史的遺物の返還問題を紹介したいと思います。

童増氏が返還を求め続けたのは、「鴻臚井碑(こうろせいひ)」と呼ばれる石碑です。この碑は、7~10世紀に東北アジアに存在した渤海国と当時の中国の王朝・唐の関係を伝える史料で、重さは90トンにも及びます。

1908年、日本海軍が日露戦争後に激戦地だった中国東北部の旅順から運び出し、戦利品として明治天皇に献上したものです。現在も東京の皇居・吹上御苑に存在し、日本政府は国有財産として返還に応じていません。

この石碑もまた、日中間の賠償問題と同様に、歴史的トゲとして今後浮上しかねません。

一人の反日活動家の死から、歴史問題や賠償問題の根深さを考えました。上々の滑り出しを見せた高市総理の外交ですが、日中関係が将来こじれると、こうした歴史問題が中国側から再び浮上する可能性を、私たちは忘れてはいけないでしょう。

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この記事を書いたひと

飯田和郎

1960年生まれ。毎日新聞社で記者生活をスタートし佐賀、福岡両県での勤務を経て外信部へ。北京に計2回7年間、台北に3年間、特派員として駐在した。RKB毎日放送移籍後は報道局長、解説委員長などを歴任した。2025年4月から福岡女子大学副理事長を務める。