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減税より生活苦救済、そして戦争を語り継ぐこと――潟永秀一郎が語る「夏の記憶」

潟永秀一郎

8月14日放送のRKBラジオ『立川生志 金サイト』に出演した元サンデー毎日編集長の潟永秀一郎さんが、「夏の記憶」をテーマに、自身の体験からいまの社会問題、そして戦争を語り継ぐことの大切さについて思いを語りました。

お盆に働く方々への感謝と、中3の夏のほろ苦い記憶

私も記者時代はお盆休みも交代で泊まり勤務があったりしましたが、今は事務仕事で休みが取れることに感謝しています。でも、今もお仕事の方もたくさんいらっしゃるし、とりわけ熊本の被災地で水道の復旧など支援業務にかかわっている方や、ボランティアで片付けなどを手伝っていただいている方々には、本当に頭が下がります。私が言っても仕方ないんですが、本当にありがとうございます。

ということで「夏の記憶」なんですが、まずわたくし事からお話ししますと、中3の夏、私、当時の人気クイズ番組「アップダウンクイズ」の九州予選を通って、中学生大会に出場したことがありまして(笑) 、いやー、これが悲惨というか、やっぱり田舎者なんですね、本番になったらアタマ真っ白。気が付いたらあと何問かしか残っていなくて、ようやく1問答えたら終わりでした。

あれ、答え分かっていても、押せないもんですね、ボタンを。金縛りみたいな緊張です。で、唯一言えたのが「シード」という答えで、夏休みが終わって学校に行ったら、もうあだ名は「シード」ですよ(笑)。無断でテレビに出たというので、朝から校長室に呼ばれて怒られるし、もう散々でした。

うどん店で見かけた光景と、よみがえる「かけうどん」の記憶

なんて、半世紀も前のことを思い出したのは今週月曜日、仕事帰りに某大手うどんチェーンに寄った帰りでした。

店に入って、うどんを注文してトレイに乗せて、空いた席に座ろうとしたら、隣の年配の女性が申し訳なさそうに「すみません、そこ取ってます」と言われて、近くの席に移ったんですが、その後でした。娘さんかお孫さんか、若い女性が「かけうどん」を一つだけ持って、ふたりの間に置いて、また席を離れて、つゆとかを入れる容器三つに、無料の天かすとネギ、ワカメをいっぱい入れて戻ってこられて、うどんは一つを二人で分けて、トッピングをいっぱい添えて食べ始められて――。

で、思い出したんです。あのクイズ大会の前日の夜を。テレビ局の招待ですから往復とも飛行機で、宿も大阪市内の高級ホテルでした。うちは飲み屋をやっていたので母は休めず、付き添ってくれたのは母の妹でしたが、初めての土地で、晩御飯をどこに食べに行っていいかもわからず、ホテルのレストランに行ったんです。そしたら、値段の高いのにびっくりして、サラダだけ頼んで、晩御飯を済ませました。叔母はその後、私が高校に合格したすぐ後に脳溢血で急死して、私は今も外で美味しいものを食べると、「私が社会人になるまで元気でいてくれたら」と、申し訳なさを感じるんです。

で、うどん屋のお二人です。昔「一杯のかけそば」という話があって、あれは後にフィクションだと分かるんですが、こちらの「かけうどん」は実話です。もしかしたら、あまりお腹がすいてなくて1杯しか頼まれなかったのかもしれませんが、でも、トッピングの量を見ると(無料のトッピングをたくさん取るのはどうか、という意見もあるかもしれませんが)、本当に申し訳なさそうに座っていらっしゃった年配女性の姿を見ると、私はとてもそんな(注意をする)気にはなりませんでした。 店を出て、中3の夏を思い出して、家に帰って仏壇の母と叔母に手を合わせました。「ごめんね、苦労ばかりかけて」と。

減税よりも「今困っている人への給付」を

そうして、思ったんです。ごめんなさい、新聞記者だったもので、食料品の1%への減税のことを。あれって、来年4月からですよね。でも、この物価高で困っている人は今、困っていらっしゃる。しかも財源のめどがないまま減税に踏み切れば、財政悪化の懸念からさらに円安が進むおそれがあると、多くのアナリストが指摘しています。結果、減税による負担軽減よりも、円安による輸入コストの上昇や物価高が直撃し、結局は生活苦につながる恐れがあります。

第一、ガソリン代の補助もそうですが、金額で言うと、大きな外車に乗っている人や、値段なんか気にせずバンバン食材を買える富裕層のほうが、金銭的な恩恵は大きいわけで、例えばガソリン補助はナンバーの色で分かる軽自動車や商用車などに限るとか、消費減税よりも、まずは所得や扶養家族の数に応じてすぐに給付をするとか、何とかならないもんですかねぇ。

そうして、いま本当に困っている方々を支えたうえで、食料品減税は財源としての「ぜいたく税」の検討や、外食産業への影響の緩和、税率をもとに戻す際の激変緩和措置なども考え、国会で議論を重ねてからでいいんじゃないかと思うんです。

終戦記念日と「街の全部が墓碑」の長崎

――なんてことを月曜から悶々と考えているお盆休みですが、明日8月15日は終戦記念日です。この日は、母の実家がある鹿児島の山村で毎年、幼い私を連れてお寺に行っていた、祖母のことを思い出します。

祖母は、二男の良夫おじちゃんを戦争で亡くしました。南方の島に出征して、遺骨すら戻らない戦死でした。これは後に母から聞いたのですが、祖母は終戦後も何年か、門司に引き揚げ船が入ると聞くたびに出向いていたそうで、歌にもなった「岸壁の母」の一人でした。

門司港に最後の集団引き揚げ船が入ったのは1961年、私が生まれた年ですから、私の手を引いていた頃はもうあきらめて、だから終戦記念日には必ずお寺で手を合わせていたんですね。母は「本当に優しいお兄ちゃんだった」と言っていました。

そんな、ぼんやりした記憶がよみがえったのは、最初の長崎支局勤務の時でした。まだ幼稚園生だった私の長男が道で立小便をして(ホントごめんなさい)、通りかかったおじいさんに怒られた日のこと、妻が近所のおばあちゃんに「もう、やんちゃで困ってます」と話すと、そのおばあちゃんは優しく諭すように「ここは爆心地から近くて、たくさんの人が道端でも亡くなったの。だからここは、街の全部が墓碑みたいな所なのよ」と、教えてくださったそうです。妻はハッとして「ごめんなさい」と頭を下げて、帰宅した私にもそのことを教えてくれました。私たち夫婦が、戦争を初めて身近に感じた日でした。

毎日新聞の連載「ヒバクシャ」が伝えること

毎日新聞は、戦後61年の2006年から広島支局と長崎支局を拠点として、連載企画「ヒバクシャ」を始めました。今年でちょうど20年になります。いわゆる「8月ジャーナリズム(終戦記念日前後に集中する戦争報道)」から脱却するため、季節ごとに被爆者の定点取材を続ける企画で、孫ほども歳の違う若い記者たちが被爆者のもとに繰り返し通い、その証言や生き様を伝え続けています。これまでの掲載回数は326回、取材した記者は延べ180人以上、取材させていただいた被爆者は79人、そのうち半数以上が既に亡くなりました。

取材に応じてくださった中には、漫画「はだしのゲン」の作者で、14年前に亡くなった中沢啓治さんもいます。「ゲン」の描写が過激すぎると批判されたこともありましたが、「俺は、ウソは描けん」と惨状を描き続けた中沢さんは、取材に「人間は忘れるから生きられる。でも、忘れてはいけないことがある」という言葉を残してくださいました。

また、長崎原爆被災者協議会の元会長で、9年前に亡くなった谷口稜曄(すみてる)さんは、2010年の核拡散防止条約再検討会議の際、国連本部での講演で、自身の被爆直後の生々しい写真を掲げ、「私はモルモットでも見せ物でもない。しかし目をそらさず、もう一度見てほしい」と語り掛け、「長崎を最後の被爆地とするため。私を最後の被爆者とするため。核兵器廃絶の声を全世界に。ノーモアヒロシマ ノーモアナガサキ ノーモアヒバクシャ」と訴えました。2006年の連載スタート時から何度も取材に応じていただき、「忘却は原爆の肯定につながる。目をそらさないで」という言葉を残してくださいました。

黒い雨と闘う高東さんと若い記者の二人三脚

今は「26年夏」のシリーズで、広島原爆忌前日の8月5日紙面には、26歳の井村陸記者が、85歳の高東征二(たかひがし・せいじ)さんとの交流を記しています。

高東さんは、4歳の時に爆心地からおよそ9キロの自宅で「黒い雨」を浴びました。そうした被害者の救済は長年放置され、ようやく1976年に国は「黒い雨被害」の援護対象区域を指定しましたが、多くの人が対象外となり、被爆者認定を求める集団提訴で、高東さんも原告の一人になりました。5年前の広島高裁判決で勝訴して対象区域が広がり、原告全員が被爆者健康手帳を手にしましたが、新基準でも対象外となった人々が2次提訴し、今も訴訟は続いています。

救済のため長年、独自の降雨実態調査などを続けてきた高東さんですが、7年前に脳梗塞(こうそく)を患い、体にまひが残って運転免許を返納し、2年前に担当記者となった井村記者に「わしの足になってくれんか」と頼まれたといいます。以来、2人は二人三脚で1~2か月に1回、黒い雨が降ったとされる地域を訪ね、生存者にあの日のことを聞き取り、記録に残しています。高東さんは「わしの願いは、黒い雨を浴びた全員が、手帳をもらえること」だと語り、井村記者は「これからも調査を続ける高東さんの力に、少しでもなりたい」と記事を結んでいます。

政府が非核三原則の見直しを検討している、と報じられる戦後81年目の夏。もう一度、被爆者の皆さんの思いでもあろう中沢さんの言葉を繰り返して、今日は閉じます。

「人間は忘れるから生きられる。でも、忘れてはいけないことがある」

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この記事を書いたひと

潟永秀一郎

1961年生まれ。85年に毎日新聞入社。北九州や福岡など福岡県内での記者経験が長く、生活報道部(東京)、長崎支局長などを経てサンデー毎日編集長。取材は事件や災害から、暮らし、芸能など幅広く、テレビ出演多数。毎日新聞の公式キャラクター「なるほドリ」の命名者。