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国葬でのぞき見える「中英の溝」女王が抱いた中国のイメージは?

9月19日に行われたイギリス・エリザベス女王の国葬。多くの国家元首が参列した一方で、招待されない国もあった。イギリスでは、中国政府代表の国葬参列に反対する声が上がった。女王の国葬から見えてくるイギリスと中国の関係について、RKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』に出演した飯田和郎・元RKB解説委員長がコメントした。  

人権問題に敏感なイギリスで中国の弔問を拒否する声

報道によると、ロシア、ベラルーシ、ミャンマーなどが招待されなかった。クーデターで軍部が政権を奪ったミャンマー。獄中にいるアウン・サン・スー・チーさんの亡くなった夫はイギリス人。スーチーさん自身も長くイギリスで研究生活を送っていた。人権問題に敏感なイギリスが、ミャンマーを招待しなかったのは、当然に思える。

そんな中、中国は、国家副主席の王岐山氏が参列した。国家副主席は、国の制度でいうと、国家元首である習近平氏に次ぐ存在。中国側は「習主席の特別代表として派遣した」と説明している。

王岐山氏は74歳。5年前の共産党大会では、内規にある定年制度に従い、共産党最高指導部から退いた。ただ習近平氏の信任が厚く、国家副主席のポジションで残った。習近平政権の中で重要な役割を果たしている。3年前に行われた天皇陛下の即位の礼にも参列した。

国家副主席が「習近平氏の特別代表」として参列し、中国としてはイギリスへ礼を尽くした、といえるだろう。ただ、イギリスと中国の間には、多くの問題が横たわり、中英の確執が見える。

イギリス議会の下院議長は、女王の棺が安置された国会議事堂ホールに、中国政府の代表団が弔問に訪れることを拒否した、との報道があった。

中国メディアによると、王岐山氏は結局、国会議事堂ホールでの告別式に出たが、そういう声が上がるのは、イギリスの議会が昨年9月、新疆ウイグル自治区の人権弾圧を巡り、駐英中国大使に議会への立ち入りを禁止したという経緯が背景にある。

また一部の国会議員は、中国政府代表が女王の国葬に参列することに反対した。こちらも、王岐山氏の国葬参列には問題がなかったが、イギリス議会下院は1年前、新疆ウイグル自治区で少数民族が「ジェノサイド(=民族の大量虐殺)に遭っている」と認定している。「ジェノサイドの首謀者が国葬に参列していいのか」という声はイギリスには根強い。

新疆ウイグルだけではない。やはり信仰の自由が制限されてきたチベット自治区でも弾圧が続く。チベットは歴史的にもイギリスと関係が深い。約70年前の中国軍のチベット進駐によって亡命したチベット人の2世、3世の多くがイギリスで暮らす。

中国を拒絶する空気は香港問題も起因

もちろん、ウイグルやチベットでの人権問題は大きなファクターだが、同様にイギリス社会で、中国を拒絶する空気があるのは、香港での最近の動きが大きいのではないだろうか。香港は、かつてイギリスの植民地だった。イギリスとしては、香港の現状を深く憂慮しているのだろう。

1997年7月にイギリスから中国へ返還された香港には「一国二制度」が適用された。資本主義制度や言論の自由など香港の自治権が認められた。さらに「返還後50年間、これらシステムを変えない」ことは、香港の憲法にあたる「香港基本法」に明記されている。これらの理念は、返還に合意した1984年の中英共同宣言でも約束された。

今年は、香港が英国から中国に返還されて25年。50年間の約束のまだ「折り返し」でしかない。さまざまな法律や制度によって、中国による統制が強まり、香港の民主化は挫折した状態だ。亡命チベット人同様、香港の多くの民主活動家たちが、イギリスへ逃れてきている。当然、イギリスとしては「約束を反故にされた」という思いだろう。

エリザベス女王の訪中を熱烈歓迎

あまり知られていないかもしれないが、西ヨーロッパで最初に、今の中国共産党政権を承認したのはイギリスだった。中華人民共和国誕生から3か月後、1950年1月のことだ。

亡くなったエリザベス女王は1986年10月に、中国を訪れている。女王がちょうど60歳の時だ。イギリスの君主が中国を訪問するのは、初めてという歴史的出来事だった。女王は実に7日間も滞在し、北京をはじめ、上海、西安、昆明、広州を回っている。

当時の中国共産党機関紙「人民日報」の紙面が手元にある。女王が北京に到着した様子を1面トップで報じていて、飛行機のタラップを降りる女王の写真が大きく載っている。

当時は鄧小平が事実上の最高指導者で、胡耀邦、趙紫陽といった開明派のリーダーたちが国を主導していた。女王が中国に滞在した7日間の「人民日報」を読み進めると、中国側の熱烈歓迎ぶりがよく伝わってくる。先ほど紹介したように、その2年前に香港返還で合意したことで、訪問の機が熟したということだろう。

共産党トップだった胡耀邦総書記は、女王に語っている。

「中国とイギリスの関係はいま、最良の瞬間を迎えました。これから両国は『この上ない領域』に進んでいきましょう」
 

女王は今の中国に失望した?

このころの中国は、社会主義を堅持しつつも、外国の文化を積極的に取り入れていた。当時の日本の首相は中曽根康弘氏。中曽根~胡耀邦のラインで日本との関係は国交正常化後、もっとも良好だった。

しかし、それは長くは続かなかった。政治改革を進めた胡耀邦が失脚し、そして急死した。胡耀邦の突然の死が天安門事件へとつながっていく。中国は国際的な孤立を経て、驚異的な経済成長を遂げて国際的な地位を高めていった。そんな自信も後押しして、今日では国際社会におけるルールを逸脱する行為が目立つ。

そんな中国を、エリザベス女王はどのように見ていたのだろうか。

今から6年前、こんな出来事があった。その前年に実現した習近平主席のイギリス訪問を振り返り、女王は、中国側当局者の態度が「非常に無礼だった」と批判している。女王が発した言葉が偶然、テレビカメラのマイクに拾われていた。

当時、あるイベントで習主席訪問の警備責任者を務めた警官と顔を合わせた際、女王が「かわいそうに」と言ったのだ。それに対し警官が「とても大変でした」と漏らすと、女王は「分かるわよ」と応じてみせた。中国側の、誰のどのような態度を指すかは不明だが、報告を受けていたのだろう。

女王は、今の中国に失望していたのだろう。前述の1986年の中国訪問の際、女王はイギリスの植民地だった香港も訪れている。歓迎式典で女王は、返還後50年間は維持すると合意した一国二制度に触れ「将来、香港市民が新たなチャレンジをする際、この合意は皆さんの活動を保障し、激励になるはず。私はそう信じます」と述べている。繰り返すが、この約束はのちに反故にされた。女王も当然、香港の現状をご存知だったのだろう。

中国政府代表の国葬参列に反対する声がイギリスの社会から出たように、多くの国民が中国に対して抱くイメージと同じものを女王も持っていたのではないか。変貌していく中国の指導部、中国のやり方にガッカリしていたのではないだろうか。

飯田和郎(いいだ・かずお) 1960年生まれ。毎日新聞社で記者生活をスタートし佐賀、福岡両県での勤務を経て外信部へ。北京に計2回7年間、台北に3年間、特派員として駐在した。RKB毎日放送移籍後は報道局長、解説委員長などを歴任した。
 

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