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「真犯人に迫る毎日新聞のスクープ」警察庁長官銃撃事件から28年

オウム真理教による地下鉄サリン事件の発生から28年が経った2023年3月20日、毎日新聞朝刊1面に、スクープ記事が掲載された。地下鉄サリン事件の10日後に起きた、国松孝次警察庁長官狙撃事件の真犯人に迫ったものだ。元サンデー毎日編集長・潟永秀一郎さんが、RKBラジオ『立川生志 金サイト』でその背景を解説した。    

オウム取材に関わった私にも腑に落ちる記事

今回のスクープ記事は、毎日新聞社会部の遠藤浩二記者が4年近く追い続けたものです。

 

事件当時、警視庁公安部はオウムによる組織的テロとみて調べ、時効の6年前に、信者だった元・警視庁巡査長を逮捕しますが、検察は容疑不十分で起訴を見送りました。

 

ところが、同じ警視庁の刑事部は、別の事件で逮捕した「N」という男が本ボシ=真犯人とみて調べ、時効の2年前に「長官を銃撃した」という「自供」も得るのですが、上層部から「現場の下見や犯行後の逃走を手助けした支援者を割り出さなければ、立件できない」と条件を付けられ、1人を割り出しながら関与を裏付けられないまま、2010年に時効を迎えます。警察庁長官の狙撃という大事件は、こうして迷宮入りしました。

 

しかし遠藤記者は4年前、その「支援役」とみられた男との接触に成功して取材を続け、ついに「狙撃犯はNで、自分が逃走を手伝ってしまった」という証言を得たんです。しかも、警視庁の特命捜査班が当時作成した900ページに及ぶ「狙撃犯Nに関する捜査記録」も入手し、事件の全容に迫ったんです。

 

もちろん、時効を迎えた事件が再捜査されることはなく、まして立件されることもないわけですが、オウム取材にも関わった事件記者の端くれとして、私は「おそらくこれが真相なのだろう」と腑に落ちました。法的には2人ともこの事件で訴追されることはなく、その意味では「シロ」なんですが――。

捜査手法が違う公安部と刑事部

では、記事に沿って改めて事件をおさらいします。

 

発生は1995年3月30日朝、出勤のため都内の自宅マンションを出た国松長官が拳銃で撃たれ、3発が背中や足などに命中。出血多量で一時は危険な状態でしたが、一命をとりとめた殺人未遂事件です。

 

この事件は地下鉄サリンの10日後に起きましたから、世間も、そして警視庁も、これは「教団によるテロ」だと思い込んだ面があります。ですから狙撃事件の捜査本部も、通常、殺人未遂事件を手掛ける刑事部ではなく、オウム事件と同様に公安部主体の捜査体制が組まれました。

 

実は、同じ警察組織でも、刑事部と公安部はその役割や捜査手法も違うので、簡単にその違いを説明します。

 

公安部の「公安」は「公共の安全」で、テロ対策などいわば国の治安を守る役割。他の警察組織が主に発生後の事件を調べるのに対して、公安は未然に防ぐことに重きを置きます。ですから、オウムやその後継組織とされるアレフ、極左とされる組織や右翼団体などを対象に監視や情報収集し、不審な動きがあれば捜査します。

 

警視庁公安部をはじめ、各都道府県警の警備部にも要員は配置されていますが、他の警察組織と違って警察庁の直接の指揮下にあり、特に内通者=わかりやすく言うとスパイ=を扱う「ゼロ」と呼ばれる作業班は、直属の上司でさえ任務を知らされないといわれます。

 

まして、刑事部をはじめとする他の部署に公安が情報を提供するはずもなく、同じ捜査本部の中ですらそうです。記事は触れていませんが、実は長官銃撃事件の捜査本部でも、その秘密主義が壁になりました。冒頭お話ししたオウム信者の元警視庁巡査長の取り調べは公安が行い、刑事部には知らされていなかったと言われます。

事件から8年後に浮上したNの存在

ではまず、この元警察官の捜査経過です。「オウムによるテロ」説に立っていた捜査本部は事件の翌年、公安側の取り調べで、実行犯とみた元巡査長が「拳銃は神田川に捨てた」と供述したため、54日間にわたって徹底的に川を調べましたが、拳銃は出てこず、検察は立件を見送りました。

 

ところが6年後、今度は元巡査長の役割を実行役から支援役に変えて、再び取り調べを行い、元オウム幹部2人とともに殺人未遂容疑で逮捕するんです。しかしこの時も、検察は全員を「容疑不十分」で不起訴にしました。

 

一方、刑事部です。事件発生当初、オウムの犯行とみていたのは、何も公安部だけでなく刑事部も入った捜査本部全体の見立てでした。そこにNの存在が浮上したのは8年後の2003年。大阪と名古屋で起きた現金輸送車襲撃事件で逮捕したNの関係先を捜索した際、拳銃や長官銃撃事件をほのめかす詩が記録されたフロッピーディスクが見つかったんです。けれど捜査本部が逮捕したのは、先ほど言った通り、オウム信者だった元警視庁巡査長でした。

 

それでも捜査一課は服役したNの取り調べを続け、時効2年前の2008年、ついにNから「長官を狙撃した」という供述を得ました。ただ、公安部も加わった特命捜査班は、支援役=共犯者の裏付けを取る、という高いハードルを課されて時効に間に合わなかったんです。

 

かたや、検察に一度、立件を見送られてもまた強引に逮捕して頓挫し、かたや、時の公安幹部が「立件すれば逮捕・起訴・有罪判決が可能」としながら、「立件を目指す捜査は困る」と事実上ブレーキをかけた――この二つの捜査への対応の違いは、つまるところ、「オウムの犯行」という、当初描いた筋書きに合うかどうかの違いでした。

「Nの死期が迫っている」重い口を開いた支援役

そして迎えた時効。オウム説に固執した警視庁公安部は、時効成立の記者会見で部長が「オウム真理教の信者グループが教祖(松本死刑囚)の意思の下、組織的・計画的に敢行したテロと認めた」とする捜査結果の概要を、未解決のまま公表しました。結果、警視庁を所管する東京都などはアレフから名誉棄損罪で訴えられ、100万円の賠償を命じる判決が最高裁で確定しています。

 

そして今――。事件当時21歳だった支援役の男性は49歳になり、遠藤記者の取材に「(刑務所にいる)Nの死期が迫っている」と、ついに重い口を開きました。それによると、「5万円で運転を手伝ってほしい」と頼まれて、JRの駅で落ち合い、現場からおよそ700メートル離れた駐車場でNを降ろし、およそ1時間後、戻ってきたNを乗せて元の駅で降ろした――と。

 

しかし当時はNが銃撃犯とは知らず、2年近く経ってから「あの時、警察庁長官を撃った」と伝えられたと釈明し、「事前に知っていたら絶対に関わっていない。当時は金に困っていて、運転だけの割のいいアルバイトだと引き受けてしまった」と、話したといいます。

 

遠藤記者が入手した「Nの捜査記録」にはこの男性の名前があり、時効の2か月前、取調室でNに男性の写真を示すと動揺した様子を見せましたが、支援役とは認めなかったといいます。

 

この捜査当時の警視庁刑事部長で、後に警察庁長官を務めた金高雅仁氏は遠藤記者の取材に、「元巡査長らが不起訴になって以降、ほかの可能性も踏まえた捜査に軌道修正すべきだった。最後までオウムに固執して立証できず、事件は未解決に終わった」と悔しさをにじませました。

Nの現状や当時の公安部長も取材した連載記事

実際、刑事部は悔しかったのでしょう。連載「Nの記録」2回目の最後は、こう結ばれています。

<警視庁は捜査結果概要を公表した会見の翌月、長年の捜査をねぎらう意味を込めて二つの表彰をしている。公安部主体の捜査本部には「警視総監賞」を贈った一方、受刑者の関与を追った刑事部主体の特命班には、格下の「公安部長賞」を贈った。特命班の中には、屈辱と感じて表彰状をすぐにシュレッダーにかけた捜査員もいたという>
連載は3回まであり、すべての記事は毎日新聞デジタルで読めます。身びいきと言われるかもしれませんが、よくここまで取材したと感心する内容で、今日お話ししたことのほか、初動捜査のミスやNが供述した銃撃の動機、刑務所の面会室でNの弟さんに支援役の男性の名前を言ってもらった時のNの反応、死期が近いというNの現状などが記され、当時の公安部長がいま何を思うかも引き出しています。

 

ちなみに、Nは元東大生です。驚きでしょう。あらためて、ぜひ読んでいただきたいスクープ記事です。

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