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尾辻秀久参院議長の追悼の辞から考える「政治家の言葉」の重要性

「聞く力」と「丁寧な説明」を掲げる岸田首相。だが、マイナンバー制度に伴う健康保険証の廃止方針をはじめ、政策について十分に説明できているとは言い難い状況だ。8月18日、RKBラジオ『立川生志 金サイト』に出演した元サンデー毎日編集長・潟永秀一郎さんは、全国戦没者追悼式での尾辻秀久参院議長の追悼の辞を紹介しながら「政治家の言葉」の重要性についてコメントした。

小学生の手紙に答えない岸田首相

8月17日の毎日新聞朝刊に、東京・世田谷区の小学6年生が、岸田首相に送った手紙の話が載っていました。書き出しは概ねこうです。

「戦争は怖いし、絶対にやってはいけないと思っていたのに、ニュースで、防衛費をあげようとしていることを知りました。そこで、岸田首相に『ぜひ聞いてみたい』と、クラスのみんなで手紙を書きました」

そうして「なぜ軍事費を増やしているのですか?」など、率直な問いが記されています。2月に首相官邸あてに送られましたが、返信はなく、そのことを知った記者からの質問に、首相はこう述べました。「一つ一つにお返事を出すことは困難でありますが、安全保障政策については、国民の皆さんのご理解を得られるよう努めていきます」――これ、答えていませんよね。

「聞く力」と「丁寧な説明」を掲げる岸田首相ですが、この防衛費の件にせよ、マイナンバー制度に伴う健康保険証の廃止方針にせよ、なぜなのか、何のためなのかを十分に説明できていないと感じるのは、私だけではないと思います。内閣支持率は毎日新聞の調査などですでに3割を切りましたが、それは「この国をどうしたいのか」という思いより、政権を維持する、その思いの強さが透けて見えるから、でもあるでしょう。

「自分の言葉」で語った尾辻秀久参院議長

そんな、もやもやとした空気の中、心に響く政治家の言葉がありました。終戦から78年を迎えた15日、日本武道館で開かれた全国戦没者追悼式。天皇陛下のおことばに続く「追悼の辞」で、尾辻秀久参院議長が述べた言葉です。

本日ここに、天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、 全国戦没者追悼式が執り行われるにあたり、 謹んで哀悼の誠を捧げます。

父も32歳で戦死をいたしましたので、私は今日、参議院議長として、また、遺族のひとりとして、ここに立たせていただいております。

私たちは、焼け野原の中、お腹を空かせて大きくなりました。「一度で良いから、お腹いっぱいご飯を食べたい」と思っていました。

母が元気なころ、軽口で「親バカだなあ」と言いましたら「私が親バカでなければ、父親のいないあなたは生きていなかった」。母に諭されたことを忘れることはできません。

その母も41歳で力尽きた時、戦没者の妻の皆さんが母親代わりになって下さいました。

遺骨収集でご一緒しました時、その中のおひとりがご遺骨に語り掛けられました。「子供達をしっかり育てるという、あなたとの約束は、ちゃんと守っていますよ」

私たちは、生きるか死ぬかという中を、肩を寄せ合って生き抜いて参りました。平和で豊かな国を作り上げました。

いま、私たちがしなければならないことは 「犠牲となられた方々のことを忘れないこと」 と、「戦争を絶対に起こさないこと」であります。

平和を守るために、私の経験を次の世代に語り継いで参りますことを戦没者の御霊(みたま)にお誓いを申し上げて、 追悼の言葉といたします。

参院議長の追悼の辞は、メディアにほとんど取り上げられないんですが、思いのこもった「自分の言葉」ですよね。だから、胸を打ちます。

実は尾辻議長、前年もやはりご家族のことに触れて、「母は、残された私と妹を、女手ひとつで、必死に育ててくれましたが、41歳で力尽きてしまいました。母も戦死したと思っております」と、語っています。

15年前には「議会史に残る名演説」も

尾辻さんの言葉については2年前にラジオ番組でも話したことがあって、その時は、現職の国会議員が亡くなった時に行う「哀悼演説」でした。2008年に旧民主党の山本たかし参院議員が亡くなった際の尾辻さんの哀悼は「議会史に残る名演説」と言われ、与野党の違いを超えて認め合い、尊敬しあう間柄を、今の政界にも思い出してほしいという趣旨でお話ししました。簡単に振り返ります。

山本議員は末期がんの身を押して「がん対策基本法」と「自殺対策基本法」の成立に奔走し、当時、厚生労働大臣だった尾辻さんも「同志」として、共に取り組みました。哀悼演説は、時に言葉を詰まらせ涙をぬぐいながら「あなたは参議院の誇りです。社会保障の良心でした」という言葉で締めくくられます。これ、ネットで「山本たかし」「追悼演説」と検索すると動画がありますので、ぜひご覧いただければと思います。

就職で言われたひとことが政治家としての原動力に

戦没者追悼式の話に戻りますが、とりわけ私が胸打たれたのは、母親代わりになってくださった戦争未亡人の一人が、収集した遺骨に向かって語りかけた言葉。「子供達をしっかり育てるという、あなたとの約束は、ちゃんと守っていますよ」です。

実は尾辻さん自身、お母さんを亡くした後、防衛大をやめて郷里の鹿児島に戻り、働いて妹さんを大学に出しました。この時の話が、母校・鹿児島玉龍高校での講演に残っているので、少しご紹介します。

「とにかく仕事を探さなきゃいかんと思って、一生懸命、仕事を探したんだけれどもね、その頃、片親というだけで就職は絶対にだめでしたからね。ましてや両親がいない私が、就職できるわけがない。あんまり腹が立つから、会社で言ったことがありますよ、『何でおれを雇ってくれないんだ』と。その時言われたのは、『うちは慈善事業ではありません』と、はっきり言われました。今、私が政治の世界で生きているのも、その一言ゆえと言ってもいいと思います」

私も母子家庭でしたが、ここまで露骨な差別はなく、一世代上の苦労を初めて知りました。

その後、尾辻さんは一念発起して東大に進むんですが、世界を放浪して中退し、政界に進みました。同郷の私は、中学校時代にその放浪記「ボッケモン(鹿児島弁で無鉄砲なやつ)世界を行く」を読んだ当時から存じ上げていますが、記者になってからは「日本会議」や「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」といった活動から、正直、距離を感じていました。

ただ一方で、「発達障害の支援を考える議員連盟」や「犬猫の殺処分ゼロをめざす動物愛護議員連盟」の会長や、「イクメン(育児・子育てをする男性)議員連盟」の顧問なども務め、選択的夫婦別姓導入には「どちらかと言えば賛成」、日本の核武装は「将来にわたって検討すべきでない」とし、原発の海外輸出には反対――というのも、尾辻さんらしいというか。

自らを「保守」「右翼」と言いながら、そこを支持基盤とした安倍さんとは相容れず、総裁選では二度、対立候補を支持して、以後、大臣や党の要職に就くことはありませんでした。多くは言いませんが、少なくとも損得で物事を決めない、そういう方です。

国会議員にも受け止めてほしい言葉の重み

さて、今日最後にご紹介するのは、その尾辻さんが山本議員の哀悼演説の中で語った、こんなエピソードです。

「質疑の中で、私が明らかに役所の用意した答弁を読みますと、先生は激しく反発されましたが、私が私の思いを率直にお答えいたしますと、幼稚な答えにも相づちを打ってくださいました。先生から、『自分の言葉で自分の考えを誠実に説明する大切さ』を教えていただきました」

これなんです。『自分の言葉で、自分の考えを、誠実に説明する大切さ』。政治家の言葉は、こうあるべきだと、改めて思います。

そうして、「戦争をする覚悟」ではなく、戦争体験者であり遺族である尾辻さんが語った「いま、私たちがしなければならないことは『犠牲となられた方々のことを忘れないこと』と、『戦争を絶対に起こさないこと』であります」という言葉の重みを私自身胸に刻み、国会議員の方々にもしっかり受け止めてほしいと願ったお盆でした。

◎潟永秀一郎(がたなが・しゅういちろう)
1961年生まれ。85年に毎日新聞入社。北九州や福岡など福岡県内での記者経験が長く、生活報道部(東京)、長崎支局長などを経てサンデー毎日編集長。取材は事件や災害から、暮らし、芸能など幅広く、テレビ出演多数。毎日新聞の公式キャラクター「なるほドリ」の命名者。

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