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雲仙大火砕流から31年~当時を知る記者が現地で若手取材者に訴えたこと

長崎県雲仙・普賢岳の大火砕流が起きたのは、1991年の6月3日。犠牲者43人のうち、報道陣が20人を締めるという特異な災害だった。RKBの神戸金史(かんべ・かねぶみ)解説委員は当時、新聞社に入社したばかりの新人記者。その日は交代していて、難を逃れた。翌年から3年間、現地島原市に住んで災害報道に従事した。31年目の法要に参加た神戸解説委員がRKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』でその様子を語った。  

消防団員12人、報道陣も20人が犠牲に

6月3日は、私にとってとても大事な日で、長崎県雲仙・普賢岳災害の大火砕流で43人が亡くなった日ですね。私が以前に新聞記者だった時に、新入社員で配属された長崎支局で噴火をしていた普賢岳に取材に行って、交代して戻った後に6月3日が来た。犠牲者43人のうち、3人が先輩でした。私はたまたま交代していたので、生き残ってしまったんです。1991年、今年で31年になったんですけど、マスメディアで亡くなった方々は16人、タクシーの運転手さんが4人で計20人。半分近くを占めた、特殊な災害でした。

6・3大火砕流 43人の犠牲者

消防団員 12人

警察官  2人

外国人火山学者 3人

市民  6人

マスコミ 20人(タクシー運転手4人含む)

 

※ほかに、93年の火砕流で住民1人が死亡、犠牲者は計44人
地元の方が去年、埋まっていたタクシーなどの車両を掘り返して、追悼碑も立ててくださったんです。さらに今年初めて、碑の前で地元の方々が法要を開いてくれました。地元の「安中地区町内会連絡協議会」会長の阿南達也さん、当時島原市の職員で、公民館に勤めていた雲仙岳災害記念館の杉本伸一館長が、あいさつに立ちました。

 

ネット上では「無謀なマスコミの取材があり、消防団が警戒していて、みんなを巻き添えにさせた」ということが書かれています。それは、事実と違うわけではないけれど、それだけでもない。現地にずっといて、思っていたことです。私たちは犠牲者を出してしまった以上、責任もありますし、あまり語られないできた。31年経って、雲仙岳災害記念館の杉本さんは、「1人1人のことを、もう少し考えてみた方がいいんじゃないか」とおっしゃいました。

杉本さん:地域の住民の人も、含まれています。家に貴重品を取りに来た人、畑仕事に入った人もいましたけど、その住民の中に2名、島原市の委託を受けて、選挙のポスターを外しに来ていた人も実は含まれていました。いまだに3名が行方不明です。こういうことも、だんだん忘れ去られようとしています。その家族もそれぞれの思いがあるし、関係者もそれぞれの思いがあります。
 

31年経って…地元の方が訴えたこと

それぞれの方にそれぞれの家族があって、関係者もいて、それぞれの思いがあるんだ、と。この言葉を聞きながら「私たちメディアの犠牲者のことも考えていただいているんだな」と感じました。追悼慰霊碑に焼香して、手を合わせた私たちを、地元のメディアが取材している。取材する側なのに取材されるのは本当につらいなと思いました。杉本さんはさらに、私たちや取材に来ている記者たちに呼びかけたんです。

杉本さん:31年経って、変わってきたものがあります。少し周りが見えてきた。自分の関係するところだけではなくて、いろんな人の話を聞きながら、少し見えてきたような気がしています。

 

「じゃあ、他の人たちはどうだったんだろうか」ということも、ぜひ考えてほしい。そのようなものを、みんなで共有することによって、雲仙で亡くなった44人の死を無駄にしない、未来につなげることができるんじゃないか、と思っています。
マスコミが現場にいたために、消防団が警戒にあたったというのは、本当です。それは一面の真実です。だけど、私たちは現地で消防団の方々ともけっこう会話をしていました。現地で実際に火砕流を起こしている山を見て、一緒に話し合ったり、地域の住民の方も自分の家の水道で「火山灰に汚れた手や顔を洗ってくださいね、水を飲んでくださいね」とおっしゃっていただいたり。そういう現場があったんです。

 

杉本さんの発言、マスコミの犠牲になったと思っていらっしゃる方々からすると、特に消防団のご遺族には複雑な感情をもたらすのかなとも思ったんです。しかし、それだけだと、なぜポスターを剥がしにきた人がいたんだろうとか、いろんなことが抜け落ちてしまいます。亡くなった44人の方々の死を無駄にしないために、未来につなげたいなら、冷静に考えた方がいいだろうとおっしゃっているんだなあ、と私は思いました。

若い取材者に呼びかける

私たちが手を合わせている後ろで、地元のテレビ局が私達の映像を撮っていました。6月3日から突然変わって、私たちは取材を受けることになったんです。取材しながら、取材を受ける。私は、法要が終わると同時に「ちょっといいですか」とマイクを取って、若い記者たちに話しかけてみました。

神戸解説委員:突然すみません、皆さん。報道の方々。私は、取材する側でここに31年前に来ていましたけども、たまたま交代して助かりました。今日、皆さんに映像を撮られていながら、「なんで私は撮影されているんだろう」と思っていました。撮影・取材をする側なんです。それが、突然ひっくり返ったのが、ここです。皆さんがここで取材していて、突然取材される側になってしまった…というのがこの場所なんですね。

 

報道が、なぜ、誰のために、報道するのかということを、徹底的に考えさせる場になったこの場で、今日皆さんが取材をしていることを考えていただきたいなと思っています。

 

一つだけ、お願いがあります。取材をしに来たんでしょうが、少しだけ黙祷の時間を取っていただけますか。皆さんが、この場の当事者でもあるということです。

 

一度カメラを置いていただいて、少しだけ黙祷をしてください。それは、自分たちの先輩のためでもあるし、自分のためでもあるし、自分たちの後輩のためでもあるかもしれません。

 

阿南達也・安中地区町内会連絡協議会長:それでは、今神戸様が申し上げましたように、黙祷の時間としていきたいと思います。1分間の黙祷です。では黙祷、始め。
私たち、当時若い記者が囲んで取材していた方が、地域の自治会のトップになって、「報道機関のことをきちんと追悼しないと、雲仙災害の再発を防げないのではないか」と考えていただいて、メディアの追悼の場所をきちんと整備し、造ってくれました。

 

お話を聞きながら、ありがたくて涙が出そうになって。31年かかって、やっときちんと話せるようになってきた。地元の方々の中でも、みんなわかってはいたんですよ。でも、なかなか言いにくかった。特に私たちからは言いにくかった。いろいろな要素が絡まっているんです。

24~28歳の率直な気持ちを文字に

(普賢岳災害は)5年間に及ぶ長い災害でした。6月3日だけじゃないんです。そのことを知っていただけたらなと思っています。私は当時、書籍にして出版しています。もう絶版しているのでインターネット上に公開しています。私が24歳から何を考えていたかを、28歳の時に書いた。若い時の気持ちが、そのまま冷凍保存されています。今だったら書かないようなことも書いています、若さゆえに。ご興味があったら、読んでいただけたらと思います。  

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